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感動するが「分からない」

 職場の倉庫の片隅に置かれていた小冊子に、北山修先生が書いた『感動するが「分からない」』という文章を見つけた。”アウトサイダー・アート”の特集だった。アウトサイダー・アート(英: outsider art)とは、Wikipediaによると「特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のこと」だという。
 北山修先生は精神分析の専門家だ。精神分析では世にあるいろんなメディアの中でも言語をツールとし、心の問題を言葉で取り扱うことが目標で方法なのだという。他方で北山先生は作詞家でもあるのだが、その立場からも言葉が見つからないという壁に直面することもあるという。”アウトサイダー・アート”と名付けられた作品群と出会うとき、精神分析家も「分からないもの」「言葉にならないもの」と次々に出会う。いわゆる学問や勉強というものは「分かる」のが仕事なのだけれど、これらの作品は「分からない」のだという。

 文章を書くことは好きで、このblogを始めてもう10年以上が経ったけれど、「書く」という行為は、自分の周囲で起こる出来事や観た芝居や映画や芸術作品を、「分かる」ためにしていることなのかもしれないと思った。だから、このブログを始めたのはそもそも自分自身のためだった。

「生きている間にこれに出会えることの貴重さと、そこで生じる感慨や感動は、解釈として言葉になればなるほど、解釈者は自分のことを思い知らされることでしょう。」

 私はそもそも自分のことにばかり興味があり、誰かの表現を通して自分のことを分かりたいのだと思う。

 でも同時に、誰かの表現を通して、その誰かのことを分かりたいとも思う。感動するが「分からない」とき、分かりたくて分かりたくて、その感動に言葉を与えようと言葉を探す。

 「(前略)私たちも分からないのを我慢して置いておけるなら、これらの作品に出会いながら新しい言葉が生まれていくというプロセスを経験するかもしれません。そこで一言で言ってしまえば、この特集ではすぐに言葉にしないで作品を心に置いておいていただきたいというのが、私たちが提案している鑑賞法です。
 言うに言えない前言語的状況はめったに経験しないものです。(中略)言葉があって初めてその意味を考えられるという面もありますが、『意味のための表現を模索する』つまり『言葉を探す』ことも大事と思います。」

 あ、図らずもブログを更新していない言い訳みたいになってしまった。 

 ちなみに、自分自身のために書き始めたブログを公開することにしたのは、たぶんそれを誰かと共有したかったからで、そうすることで誰かとつながりたかったのだと思う。
 そんなわけで。
 更新されてないブログを読みに来てくれて、どうもありがとう。
 私はこれからもたぶん、この想いを伝える言葉を探し続けると思います。

   参照、引用:『心理臨床の広場16 Vol.8 No.2』 2016

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