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「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト」

マームトジプシー「ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト」
 日時:2012年9月30日(日)14:00開演
 会場:北九州芸術劇場小劇場

 マームとジプシー、初見。
 昨年の岸田戯曲賞を受賞した藤田貴大さんの、受賞後第一作。
 小劇場に入ると、フロアにベニヤ板が大きな十字型に敷かれている。中央には、ブラウン管テレビやラジカセがオブジェのように積み置かれている。床には黒電話とか。
 奥に家の骨組みがあり、その床は一段高くなっている。さらに正面つきあたりの壁に、積み木を積んで家をつくり、それが崩される、というスライドがエンドレスで映し出されている。
 すでに何人かの役者さんがフロアに座っていて、軽くストレッチしたり、じっと座り込んでいたり、時々ひそひそ話をしたり、引っ込んだり、出てきたり。

 それを囲むように、5か所に分かれた場所に客席。ステージに明かりは当たっていないけど、客席は煌々と照らされている。ので、向こう側にいるお客さんもよく見える。
 真正面もしくはそれに近い位置に陣取ればよかったのだけれど、入り口から遠いサイド席に。
 当日パンフは家をかたどった小さな封筒に、透け感のある小さな紙が数枚入ったもの。おされ~!
 

 「住んでいた家が取り壊される」ことをモチーフに、家と家族にまつわる記憶を繰り返し、繰り返し、位置を変え、視点を変えて見せる。
 8月20日午前8時。
 私、お姉ちゃん、お兄ちゃん。もうすぐ別れそうな予感のする、ちょっとうざい私の彼氏、同居人の斉藤さん。お兄ちゃんの幼馴染、初めてワタシんちに招待した友人、近所の人。家を解体する業者さん。そんな人たちが舞台上に入れ替わり立ち代わり登場し、それぞれの8月20日午前8時と、何考えてるのかをしゃべる。舞台上を走り回りながら、独特のリズムで、入れ替わり立ち代わり、繰り返し、繰り返し。

 何度も繰り返されることによって、作家の個人的な体験は、演じる役者に役者に共有され、その体にしみこんでいくような感じ。さらに、その役者たちの本気さに、その作家の思いは芝居を観る観客にも共有され、共感される。繰り返される場面の端っこに、新しい情報が付け加えられ、細かい積み重ねに情報が付け加えられ、物語は深みを増していく。
 私を含め、客席の多くの人が、ぼろぼろ泣いていた。
 
 あの日のことば、あの日の場面、それを再現したり繰り返したり、しているうちに、事実をかみ砕いて飲み込んで、ダイジェスト。
 そうやって私たちは生きている。受け入れがたい事実を受け入れ、かみしめ、生きている。
 飲み込んで、生まれたのが、きっと作品。

 少なくとも私自身は、3年から7年で引っ越しを繰り返し、家になんて全く思い入れもなく、ここがだめならどっかに引越せばいいじゃんと軽く考えてしまうような人間だ。遠く離れたところにある実家に、自分は住んだことはない。

 演じる役者たちも、感極まって泣いたり、激しい動きに息を切らせたりしながら、大きな音に負けないように声を張り上げながら演じていた。もちろんそれで芝居が滞ったり崩れたりすることは全くなく、淡々と芝居は進んでいく。

 作家がその出来事にどれほど心を痛め、悲しんでいたかが強く伝わった。
 たとえば、昔住んでいた家のその上に完成した道路を通るときに、ワタシんちを通過するときに、何を思うのだろう。その思いが、ダイジェスト(=消化する。あるいはそのことについて熟考し、その意味をかみしめる)されて、生まれた作品なのだと思う。

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