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「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」

阿佐ヶ谷スパイダースpresents「アンチクロックワイズ・ワンダーランド」
 日時:2010年2月19日(金)19:00開演
 会場:ももちパレス

 長塚圭史さんがイギリス研修から帰国しての第1作。
 豪華キャストで。

 翻訳劇を演出するようになってから、長塚作品はずいぶんと変わったように思えます。以前は社会的なトピックを扱うことが多かったし、わりと賑やかな芝居を作っていたけれど、今回の作品は人間の内面を掘り下げて掘り下げて、パッケージした感じがするもの。装置もシンプルで、役者の芝居と演出にスポットをあてた感じがしました。

 ものがたり。
 作家の男(光石研)は、最新作を新聞の書評でけなされ、落ち込み、不安を感じている。その妻(村岡希美)は作家である夫の第一の読者であり、作品づくりにも協力する存在。ちなみに趣味は人形作り。
 ある日、新聞やネットに書かれた最新作に対する書評に気分を害した作家は、担当編集者(池田鉄洋)とともにバーへ出かけてしこたま酒を飲み、バーで出会った作家のファンだという美しい女性(小島聖)と彼女の家で過ごす。が、些細なことから口論となり、作家は彼女を階段から突き落とし、そのまま現場から立ち去る。彼女は植物人間になってしまう。
 事件は警察沙汰となり、刑事たち(中山祐一郎・山内圭哉)が、作家とその周辺を調べ始める。

 舞台上で演じられている物語は、作家自身が生きる世界なのか、作家の物語世界なのか、それとも作品を作り上げるまでの作家の脳内世界なのか。いずれにせよその世界そのものが、透明な何かでぴっちりとパッケージされてそこにある。
 観客は客席からそれを見ている。舞台上にいる物語の登場人物たちは、“見られている”ことを感じている。それだけが、外に開かれた穴であるようだ。

 ”作品”というものは、たぶんそういうものだ。作品を作る過程というものは読者にも観客にも見えなくて、ただ、完成した作品だけがその目に触れる。ただ完成した作品だけが、批評の対象となる。ならば、つまらない作品が完成するまでの作家の脳内作業を見せて、それが“おもしろい”と評価されたらどうなのか。
 この芝居は、勝手な“批評”へのアンチテーゼであるように思えた。

 最初から最後まで通して見れば、新聞の書評でボロクソにけなされてしまうような陳腐なものがたり。けれども、時間と空間の軸を差し替えたり、間に超常的なエピソードを差し挟みながら見せることで、それが“おもしろい”と評価される作品となる。
 まあ、“手法”としては面白いと思ったけれど、“作品”として面白かったかというと疑問。もう一つなにか味がほしかったかなぁ、と、ネット上の批評家は、作家を傷つけるような勝手な”批判”をしてしまいます。

 役者さん。 
 光石研さん、映画にいっぱい出てる人ですが、舞台に出るのは珍しいのではないでしょうか。派手さはありませんが、うまい役者さんだなぁと思いました。
 加納幸和さん、超ひさしぶり~!女形じゃないのね。まあ、あの作品で女形で出てきてもびっくりしますが。
 馬渕さんと伊達暁さんのシーンは、ちょっと異質で、あの二人だけは完全に”物語の中の住人”のように感じられた。まあ、そう感じさせることが意図なのでしょうけれど。伊達さん大好き。出てきただけでドキドキ。
 
 しかし。
 金曜日の夜、へとへとに疲れてがちがちに固まった身体で観るには、ちょっと辛かった…。静かな場面にはちょっとうとうと。あと、この作品をやるには会場が大きすぎたと思いました。これは、長塚さんの志向と制作上の都合が一致していないせいだと思いますけど。

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