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「むかしここは沼だった。しろく」

劇団八時半「むかしここは沼だった。しろく」
 日時:2007年2月25日(日)15:00開演
 会場:ウィングフィールド

 劇団八時半は初見。ただ、鈴江さん戯曲の作品は、OMS戯曲賞を受賞した「ともだちがきた」とか、飛ぶ劇場がオフシアターとして上演した「素足の季節」など、いくつか見たことがあります。「ともだちがきた」はテレビで見て感激して、阿佐ヶ谷スパイダースがスズナリでやったやつも見に行きました(←ちなみにこれが、人生初のスズナリ)。

 劇場の中に入ると、劇場の奥に見事に田舎の一軒家の一室。とても素敵。これだけで一瞬にして物語世界に引き込まれる。最近の飛ぶ劇場作品や北九州芸術劇場プロデュース公演などのセットも手がけている柴田隆弘さんのお仕事。

 ものがたりは「大学とか大手の研究所から離れて、個人の研究所でほそぼそと発掘を続けている人たちのお話」なのですが、私には「テレビとか大手プロダクションとは関係なく、小劇団で細々と演劇を続けている人たちのお話」としか思えませんでした。・・・。

 戯曲を書く、あるいは自分以外の役を演じる、という作業はおそらく自分の中へ奥深く奥深く分け入っていく作業で、こつんこつんとただひたすら自分を深く深く掘り進むこと。見つかるとも知れない“なにか”を求めて。
 こつんこつんと掘り進めながら、いろんなことをソウゾウする。
 ずっと昔に滅びてしまった恐竜のこと。あるいは、『むかしここは沼だった。そこに男と女がいた。その沼のほとりで、ふたりは恋に落ちた。…』とか。

 携帯の電波も届かない山奥にあるその“研究所”にはいろんな人が集まっている。
 主任、主任の妻。あとは主に若者。主に人間関係全般が苦手そうな人。頼まれると嫌といえない、人に嫌われるのが怖い寂しがり屋とか、一人になると寂しいくせに、夫とか子供とか姑とか、そんな人間関係が時にうっとおしくなってつい逃げ出してしまう人とか。
 20代、30代。まだ“社会復帰”は間にあうかも知れない。
 40代、もう後がない。妻の実家の財産に支えられながら、見つかるとも知れない“化石”をひたすら掘り続ける。
 こつん、こつん。

 だけど、鈴江さん演じる主任も時にはそんな情けない自分が嫌になったり、いつまでたっても見つからない“化石”にいらだったり、“研究所”の人間関係が煩わしくなることもある。お気に入りのパジャマだけ持って、ふらりと出て行きたくなる。なんでこんなみんなここにいるのか。なんでみんな自分なんかについてくるのか。なんでみんな見つからないかも知れない化石を探し続けるのか。
 やめちまえやめちまえ。おまえらみんな、こんなことやめて社会に帰れ。そんなやけくそな気持ちで仲間に銃を向ける。

 それでも。
 やっぱりやめられない。おまえらみんなが必要。おまえらみんなが大切。
 主任がいなければなんにもできない、パニックに陥ってしまうだけの仲間たち。みんなまとめて、抱きしめる。

 なんだかんだ言って、やっぱり“見つかる”可能性を信じているのだろうな。
 なんだかんだ言って、やっぱり“仲間”を捨てきれないのだろうな。
 激しく共感する。痛すぎる。

 冒頭からせりふをかみまくっていて、せりふ回しもちょっとわざとらしくて違和感があったのですが、これは鈴江戯曲によくあることらしい。後半になるに従って気にならなくなりましたが、この戯曲についてくるには、役者さんたちには相当の高レベルが要求されていて、だからこそ鈴江さんはとても苦悩しているように私には思えました。
 
 せりふで物語を運ぶ、どちらかと言えば静かな演劇でありながら、がちゃがちゃとにぎやかしい演出や場面転換もなかなかおもしろかったです。

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