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2005年8月

鴻上尚史演出「トランス」9年ぶりに再演

 立原「当然だと思うのに、礼子、僕は不安でたまらないんだ。自分が何者かわから
    ない不安じゃない。そんな簡単なことじゃないんだ。僕は、自分が何者でもない
    と知ったとたん、不安で不安で堪らないんだ。僕は、不安そのものなんだ」 
 紅谷「雅人・・・」
 立原「僕はどうしたらいいんだ」
 紅谷「大丈夫。私がいるから」
 立原「・・・えっ?」
 紅谷「私がここにいるから」
 立原「・・・」
 紅谷「だから大丈夫」

 (鴻上尚史『トランス』より)

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  「今まで見た芝居で最も好きなものは何ですか?」ときかれたら、間違いなく鴻上尚史「トランス」(初演)を挙げる。でも、実はこれは正確ではない。私は鴻上演出の「トランス」(初演)はビデオでしか観たことがない。それでもやっぱりこれが一番だと言いたいのだ。

 私と芝居との出会いは鴻上尚史がきっかけなのだが(その詳細はまた別の機会に譲るとして)、その頃第三舞台は活動をしていなかった。それで仕方なく第三舞台の役者が出演したり、鴻上さんが演出する作品を見に行っていた。「トランス」はちょうどその頃に上演されたものだ。早速上演会場の某劇場に電話して「チケットはありますか?」と尋ねたところ、「ありません!」という冷たい即答。そこの劇場のお姉さんの対応は冷たい、とその後も何度か行って思ったが、まあ大人気の第三舞台・鴻上尚史がちっちゃな某劇場で公演をするとなればチケットはおそらく即日完売だったであろうわけで、お姉さんは連日の「チケットありますか?」攻撃に疲れ切って怒っていたのだろう。

 この初演は確か鴻上作品の中では最初にビデオ化され、私はそれを見た。
 そして人に薦めまくった。でも、おもしろいと思ってくれる確率は50%だった。
 奥山佳恵・三宅弘城・内野聖陽ver.は、失意の中劇場で見たのだけれど、もっとも泣ける場面で客席に笑いが起こったので驚いた。ああ、演劇って観客とともに作るメディアなのだと実感した。そのときは内野聖陽の参三を松重のコピーだと思ったけれど、内野さんがすごい筋肉質の体を作っていたこと(「ターミネイターおかま」だからね)、爆発する雅人への想いに、すごい役者だと思った。(そして「エリザベート」を観て本当に内野ファンになった)

 今も時々ビデオを見る。脚本も読む。そして泣く。3人の登場人物それぞれに思い入れがある。観るたびにいろんなことを考える。
 
 鴻上尚史自身の演出による「トランス」は9年ぶりとのこと。20代の役者を使った若者バージョンと30代の役者が演るバージョンの連続上演。 
 残念ながら東京公演のみ。たぶん。これ、地方を回るのはちょっと大変だろうなあ。
 でも、観たいなあ。両バージョン観ようと思ったら、楽日近くに行くしかないんだよなあ。行くのかなあ。ああ。

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2バージョン連続上演!!
KOKAMI@network vol.7 「トランス」

 作・演出:鴻上尚史
 出演:
  [TRANS youth version] 高橋一生 すほうれいこ 瀬川 亮
  [TRANS elder version] 松本紀保 みのすけ 猪野 学

 一般前売開始:2005年10月1日(土)(各公演共通)

  [東京公演]
  2005年11月8日(火)~11月27日(日)紀伊國屋ホール
  お問い合せ:
  サードステージ 03-5772-7474
  料金:5,800円(全席指定・税込)  学生席3,800円
  ※学生席はチケットぴあ店舗でのお取り扱いのみとなります(要学生証)

  タイムテーブルなど詳細は http://www.thirdstage.com/ をごらんください。

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 関連して。
今日、「“祖国なき独立戦争”を楽しむために」を購入。まだ全部読んでいないのだけれど、思うところありすぎて、ああもう・・・。鴻上さん大好きだよ、やっぱり。

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あなピグモ捕獲団「服部の城」

あなピグモ捕獲団「服部の城」
 日時:2005年8月7日 15:00開演
 場所:阿佐ヶ谷アルシェ

 2003年に初演された作品を改訂しての再演。

 初演時もそうだったのだけれど、この壮大な物語を私のアタマで理解するのは不可能なので、理解しようとするのはやめようと思った。理解なんてできなくても十分におもしろいのだ。どこが?ときかれても、ごめんなさい、うまく答えられない。これがあなピグモの魅力なのだ。

 次回公演は12月上旬とのこと。

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G2produce「おじいちゃんの夏」

G2produce Summer Special「おじいちゃんの夏」
日時:2005年8月5日(金)18:00開演
場所:北九州芸術劇場小劇場

 最初にいっておくと、私はG2さんが苦手である。いつもどこかでかちんときてしまう。例えるならば、あさりバターをおいしく食べているときに、砂を噛んでしまったような。
 客席にはけっこうたくさんの子どもがいたけれど、これは子どもに見せたくない芝居だな~と思った。なんだか大人が自分たちのずるさを言い訳しているだけみたいで。子どもにはいいところだけ見せておけとか、世の中のダークサイドは見せるなとか思っているわけではないけど。自分はこんなものにほっとしてしまう大人ではいたくないと思う。

 だから普段はあさりバターは食べない。G2さんの芝居も見に行かない。それでも今回私が劇場に足を運んだ理由は役者・小須田康人さん見たさゆえにである。
 スター性があるわけじゃないんだけど、うまい。おもしろいし。やっぱり見たくなってしまう。この前「その河をこえて、五月」で在日韓国人を演っていたけれど、同じ人とは思えないじじいっぷり。まあ、テンションの高いじじいってのは小須田さんの持ちネタ?だと思うのですが。
 ところで、小沢真珠さん。上手じゃないけどきれいだよねぇ。大きな瞳と白い肌。華奢だけどグラマー。デビュー当時、あまり女に興味なさそうな友人(男)が「小沢真珠の体型は実に俺好みだ!」としきりに言っていたことを思い出しました。

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なぜ書くのか(2)

 そもそも、このblogを始めたときには公開するつもりはあまりなかった。それをあえて公開しなければいけないなと思ったのは、ひとえに「福岡の演劇を盛んにする」という私の野望の実現に必要であると判断したからだ。
 大学を卒業し、芝居を見るようになった。
 福岡に移り住み、パソコン通信を始めた。
 大好きな芝居のことをネット上で語り合い、大好きな芝居を見るために、東京や大阪まで足を伸ばし、終演後は同じように芝居を愛するみんなで芝居の感想を語りながらおいしいお酒を飲んだ。
 たくさん仲間ができた。楽しかった。
 今でも東京や大阪の劇場へ行けば、客席に一人か二人は知り合いの顔を見つけることができる。芝居が終われば劇場の入り口になんとなく集まって、そのまま居酒屋へ行き、今見た芝居のことや今度ある芝居のことを語り合う。
 90年代後半のパソコン通信は、人と人とをつなぐツールだった。
 「福岡でもこうなればいい。劇場に行けば必ず誰か知り合いに会って、終演後においしいお酒を飲みながら芝居の話がしたい!」それが私の野望であり、私にとっての「演劇の盛んな福岡」だった。
 あれから実に10年の月日が流れたが、残念ながら私の野望はまだ実現されていない。
 私の野望を実現するためには、福岡で観客を育てると同時に、福岡の人を劇場に向かわせる演劇を育てる必要がある。

 私は自分の受け止めたものが表現者の新しい表現につながればなによりもうれしいと思うし、表現者のよりよい表現を育てるのが表現を受け止めるもの=観客の使命だと思っている。よい観客を育てるのは、よい表現。よい表現を育てるのは、よい観客。
 だから私は覚悟を持って書く。
 読んだあなたが表現者ならば、あなたの表現がもっとすばらしいものとなりますように。
 読んだあなたが観客なら、よい表現を育てる一人となり、ついでに終演後に私とおいしいお酒を飲んでくれる人になりますように。
 さらに。
 表現者になれなかった私の「感想」というつたない自己表現が、誰かの「表現」を喚起するものとなるならば、こんなにうれしいことはない。
 まずは読んでくださっているあなた、どうもありがとう。

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なぜ書くのか(1)

 「東京物語」をめぐるweb上のやり取りをみながら、いつか書こうと思っていたことを書いておこうと思う。

 私は「批評」という言葉が好きではない。批評の批は批判の批。なんだか悪いところをあら捜ししているような気分になる。だから自分の書くものは「感想」と呼んでいる。
 優れた芸術作品とは、うけとめたひとのソウゾウ力を喚起するものだ、と聞いたことがある。私が書きたいのは、「私がその表現から何を喚起されたか」ということだ。
 感想を書くのを自己表現の手段にしている、というのは、なんだかみっともなくて嫌なのだが、事実だから仕方がない。たかさきさんが書いているので聞かれてもいないのに書くが、私は高校時代文芸部だった。遡れば小学校の時の担任に「作文がうまい」とほめられたことに起因すると思われるのだが、単純に書くことが好きだったし、書くことでどうにか現実と折り合いをつけていた。高校生の頃なんて、みんなそうじゃない? スポーツをするとか、歌うとか、漫画ばっかり描いているとか、芝居をするとか、そんな自己表現の手段をそれぞれ持っていて、そういう方向に進めなかった人は、髪を金色にするとか、シンナーを吸うとか、暴走するとか、暴力に訴えるとか、異性に走るとかしながらどうにかやり過ごしていたのだ。
 けれど、詩だの小説だのを書いて生活できるとは全く思っていなかったし、そうしたいとも思わなかった。20歳を過ぎると、書きたいことなんてなくなった。ライターっていう仕事もいいかなと考えたけれど、本当は書きたくもないことをお金のために書くのも嫌だなと思った。結局私は、ものを書いたり自己表現したりすることとは違うことをして生活しているわけだけれど、書くことは好きだし、書かずにはいられなくなることが今もある。
 私は何かを創造する人にはなれそうにないけれど、せめて誰かの表現は真摯に受け止める人になろうと思った。 これは私の中の一つの覚悟である。
 そして、この私の覚悟を確固たるものにしたのがニフティサーブ時代の次の書き込みである。

(以下引用)********************
898/904 ******** SUN CHILD RE^2:第三舞台について質問です
(17) 96/10/08 19:04 894へのコメント コメント数:1

>ですから、解釈は、いうまでもなく、自由であり、その人の到達した解釈が、
>その人の人生のレベルに対応するのです。
>作者に、何かを聞くことは、恋人の日記をのぞくようなつまんないことですよ。

つねづね思っていたことなのですが、その解釈を作者にフィードバックするこ
ともつまんないことなんでしょうか? なんか自己満足で自分の恥をさらすよう
で(あ、て言うよりも、自分の「解釈」という表現に対する返りがないからか
な?)私はいつもなんだかためらってしまうのです。

単に私のプライドが高いだけか? SUN CHILD

956/957 ******** 青空 RE:RE^4:第三舞台について質問です
(17) 96/10/14 13:27 906へのコメント

えっと、ですね、例えば、自分の作品の反応を気にしないクリエイターは、
いないと思うのですよ。
どんなに、げーじつ家のふりして、苦悩のポーズ取ってても、いえ、そういう
人に限って、すっげー
反応を気にしてるんじゃないかと思うのですよ。
ただ、「解釈」に対して、それは、正しいとか間違っている、または、
クリエイターと同じだとか、違っているかとかを、いちいち言うのは、
とっても、つまんないと思うわけです。
だって、現代国語の授業じゃないんですから。
で、アンケートなり、レヴューなりを、クリエイターは、みんな気にしていると
思うのですよ。
そこで展開される「解釈」を、少なくとも、僕は読んでいます。
そして、それに対する答えは、「次の作品」として出る場合もあれば、
何年もかかって出る場合もあるのです。
酒の席で語る「解釈」が、一番、プライベートなものだとしますよね。
でも、そこでも、表現に対するある誠実さが必要だと、僕は思っているのです。
それは、決して、強制されるものではなく、その人なりの、
なんというか、最低限のルールと、いうものが、その人なりにあると思うのです。
例えば、酒の席で「あんな芝居、クソだよ」と言っていいというルールで
生きてる人は、レヴューでも、そういう形で書きやすいんじゃないかと
勝手に僕は思っています。
レヴューで、どこそこの劇団のあの役者は、終わったというような書き方を、
読むと、僕の胸は痛みます。
人の人生を語るに、あまりに愛がないからです。
酒の席で語ったことも、ながれながれて、必ず、伝わります。
まして、レヴューは、その伝わる度合いが、何倍もあるのです。
でも、くどいようですが、胸が痛むのは、僕の個人的なルールからで、
決して、強制するようなことじゃないと思っています。
さて、SUN CHILDさん、「解釈」は、決して、届いていないのではなく、
きっとどのクリエイターにも、届いているのです。
それが、どう伝わり、どうクリエイターを変えていくかを、
勝手に、ほくそえみながら見るのも、大人の楽しみというものですよ。

(引用以上)********************

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